Bartok Gallery  アーティストへの道
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 第4話 『僕とイラストレーションの軌跡』榎本タイキ
皆さん、こんにちは。榎本タイキと申します。パードック・ギャラリーのオーナー、ジェインさんにお誘い頂き「もじもじキャラクター祭り」というグループ展をやらさせて頂きました。そんな縁もあり今回この「アーティストへの道」を書く機会を頂きました。公の場で自分の事を書くのは初めてなのですが語ってみようと思います。

●子供時代
 僕は愛知県の名古屋市で生まれました。皆さんと同じく小さい頃から絵を描くことが好きな子どもでした。ただアカデミックな絵というものはほとんど描かず、TVのヒーローやマンガばかりを真似て描いていたような気がします。そのうち自分でオリジナルのキャラクターやストーリーを作って学校の勉強机や答案用紙の裏に描いていたりしました。
3歳の時に描いた現存するもっとも古い自分の絵

●初めて絵を学ぶ
 そんなただ趣味に毛が生えた程度の存在だった絵を初めて痛烈に意識し出したのが高校の時の大学受験でした。僕がいたクラスはいわゆる進学クラス。誰もが大学を目指してカリカリ勉強していました。ただその頃の事を思い返してみると皆自分の学力で行ける大学を目指すという子が多かった気がします。将来こういう職業に就きたいと思っているからこの大学へ行くというビジョンを持っていた子が果たしてどれくらいいたか。そして僕もその一人でした。そんな中、自分にとって衝撃的な場所に出会いました。高校3年生の夏、短期の夏期講習として河合塾の美術大学を目指すための講座というものがあることを知りました。つまり絵の勉強が出来る「美大」という選択肢があることを知ったのです。それからこの河合塾の夏期講習を夏休みの1ヶ月間だけ通う事を決めたのですが、ここで大きなショックを受ける事になります。それまでちゃんと絵の勉強をした事のなかった僕は、その教室にいる人達のあまりのレベルの高さに3日目にしてとてもついていける気がしなくなっていたのです。それなりに絵が得意だった自分の鼻っ柱をへし折られたというか。こんな自分が美大なんていける訳がないと思ってしまいました。それでもせっかく来たのだからとにかく1ヶ月だけは通うおうと思い毎日行くことにしました。とにかく知らない事、できない事だらけの日々。鉛筆の種類ってこんなにたくさんあるの?練り消しゴムってどう使うの?そんな事の連続。そして石膏デッサンと平面構成はどうしてもうまくなりませんでした。マンガのような、空想で絵を描くことばかりしていた僕は、目の前のものを観て描くということが本当に苦手だったのです。それは今だにあると思います。そういえば塾の前にあるハンバーガーショップでお昼を食べ続けていつのまにか溜まったスタンプでコーヒーカップもらったなあ。

●大学受験
 何とかこの夏期講習を終えた僕は残り半年となった高校生生活を自分の志望する美術大学へ入学することに捧げました。ただ、たかが夏の少しの間だけ絵の勉強をかじった自分にはまだ名古屋市内のレベルの高い美大へ行く自信はありませんでした。そんな中当時開校してまだ2年目の「愛知産業大学」という美術・デザインを学ぶ大学の存在を知りました。僕はこの大学1本を目指してそのまま一人でデッサンの勉強を続けました。僕の通っていた高校は普通科高校だったので周りの友達は数学の幾何学問題やら難しい元素記号を覚える毎日。そんな中、受験のために絵の勉強をしているのは僕一人だったので同じ苦しみでも好きな事だったのですごく楽しかったのを思い出します。当時所属していた美術部のアトリエと自宅の部屋でひたすら絵を描き続けました。

 そしてついに本番の受験の日が来ました。推薦枠を使えたのでまずはそれで受験しました。受験課題は確か与えられた果物や食器を自分で並べて描く静物デッサンと文章からイメージする平面構成だったと思います。この半年間このためだけに絵を描き続けてきた僕はベストを尽くしました。そして後日きた合否通知は…不合格。ただまだ1次試験、2次試験があったため意外に早く切り替えて次へ進んだ気がします。そして同じような内容で迎えた1次試験。しかし結果はこれまた不合格でした。この時、自分の中で保ってきたがんばりの糸が切れてしまいました。それでもずっとやってきたので最後の2次試験も受けました。そして何と最後の最後で合格通知が来ました。実はこの時デザイン専門学校へ行く事を決めていたのでそちらの方は蹴る事になって両親には多大な迷惑を掛けてしまいました。二転三転しながらついに念願の美術大学で絵とデザインの勉強を学ぶ4年間が始まったのです。

●大学生活
 大学の4年間。とにかく毎日が楽しくてしょうがありませんでした。好きなだけ絵の勉強が出来て、知らない事をたくさん学べて。今だにこの頃の事が自分のベースに
なっています。当時ギターのサークルにも入っていてバンド組んだり人前で歌ったりとそれまでの自分には考えられないような体験もしたり。よく必要出席数だけ取って学校にはほとんど来ていない子とかもいたけど、僕は必要以上に講座を取っていた気がします。今でも自分の好奇心が反応したらたとえ損得でいったら何の意味もないものでもやるクセがあるのですが、それはこの頃についたと思います。ホント楽しい4年間でした。青春というバッジをつけるなら間違いなくこの頃だったと思います。

●人生の大挫折
 そんな至福の大学生活も終わり、社会へ飛び出す時期、就職活動というものをやらなくてはいけない時期が来てしまいました。これだけ絵の勉強をしてきたので、何かをモノを作る仕事以外に就く発想はありませんでした。上京をする子が多い中、僕は名古屋でモノを作る仕事を極めたいという思いがあり、広告デザイン事務所へグラフィックデザイナーとして就職を果たしました。これが僕のこれまでの人生の中で最もキツイ2年間の始まりでした。

 広告業界はDTP、いわゆるMacによる版下制作が主流になっていました。当時の僕はまったくパソコンが使えなかったので仕事の中で必死に覚えて行きました。それでも時代的にギリギリ写植や色指定など原稿用紙にダミー写真や文字を切り張りして作るアナログの版下制作もやれました。今はちょっとパソコンが使えればデザイナーになれてしまいます。そんな中、基礎中の基礎のやり方で作る版下作業を体験できた、それは自分の中ですごくいい経験になっていると思います。ただ仕事自体は超ハードでした。朝の10時頃に出社をして帰れるのはほとんど夜中の2時、3時という毎日。しかもまだアシスタントだったため上の人の雑用仕事もたくさんあり、次第にストレスが蓄積されていきました。この頃から会社の近くで一人暮らしを始めました。それからはさらに帰りの電車の時間も気にしなくていいということで、労働時間はますますエスカレートして行きました。特に大阪発注の仕事が入ってくるようになって、関西出張がすごく多くなり、ひどい時は1日に2往復名古屋・大阪間を行き来しました。1週間丸々家に帰れない日があったり、もう自分の中で精神的にも肉体的にも限界にきていました。極度の緊張で体じゅうに湿疹が出てしまい、電話を出る時に声が出なくなる障害が現れてしまいました。生まれて初めて精神科という所にも行った時に僕は誰にも相談せず会社を辞める事を決めました。結局この会社を激務の中2年間勤めたのですが、生まれて初めて自分の人生にも関わる挫折感を味わい僕は疲れ切っていました。でもこの時一番真っ先に心配してくれたのが他でもない、両親でした。この時ほど家族のありがたさを痛感させられた事はありませんでした。

●やっと来た転機
 会社を辞めて2ヶ月ほど製版会社でアルバイトをして、もう少し規模の小さい広告会社のデザイン部に再就職しました。ただこの頃の僕はとにかく前の会社のショックで腑抜けに近い状態で勤務をし続けていました。この時は1999年。時は世紀末真っ直中で、かのノストラダムスの大予言で何となく世間もそわそわしていた頃。ちょっと話は変わるんですが僕は聖飢魔IIというバンドが大好きでした。ご存じデーモン小暮閣下率いるロックバンドですね。中学二年生の時からずっと追いかけてきて、多大な影響を受けてきました。聖飢魔IIはデビュー当時からどんなに人気があろうが、また、どんなに売れなくなっても1999年まで活動を続けバンドとしての使命を全うして解散するということを公言していました。そしてその言葉通り、1999年の暮れをもって解散する事になったのです。東京で12月29・30・31日の三日間のラストコンサートがあるという事で僕は全日程のチケットを取って名古屋から東京へ行きました。最後まで絶大な人気を持ちながら、潔く長いバンドの歴史を閉じたその姿を見て、自分自身も新しい事へ挑戦しようという気持ちにやっと火がつき、翌年2000年から京都にあるイラストレーション学校『パレットクラブ』へ通うことを決心しました。

●京都パレットクラブ
 パレットクラブ。日本のトップイラストレーターやクリエーターが講師陣として来る超有名なこの学校の存在は随分前から知っていました。ただ東京と京都にしかないので、僕は1年間、鈍行電車を使って毎週土曜日だけ(1週間に1回の教室でした)名古屋から京都への片道2時間半の「通学」を始めたのです。とにかく毎回ものすごい人達がやってきて、さらに言葉を交わせるというのでドキドキの連続でした。ここで初めてビジネスとしてのイラストレーションというもののあり方や方法論を教えられてすごいショックを受けました。好き勝手に描けば良かった絵を、オファーを受けてそれについて自分の解釈で絵を描くということ。こんな高等な事をイラストレーターはやっているんだという事にただ呆然としたし、それを目指している人の数の多さにもびっくりする毎日でした。1年間の京都通い。今振り返るとよくやったなあと思います。経済的にもそうですが、自分の中で眠っていたバイタリティーがここで活動し始めたのです。そういう意味でパレットクラブで出逢った人や経験はホント僕の財産です。だから京都という街は名古屋や東京と同じくらい僕の中では特別な場所に今もなっています。

●いざ東京へ
 そんな至福の時に、またもや事件が起きました。再就職したデザイン部が会社の経営不振により規模縮小するということでいきなり解雇通達が来たのです。いわゆるリストラです。ここも2年くらい勤めたのですが幕切れはあっけないものでした。ただ不思議とそんなに落ち込む事はありませんでした。自分の中でバイタリティーは復活していたし、過去にこんな事に匹敵しない挫折感を体験していた事もあり自分自身でも判るくらい相当心が強くなっていました。そしてその時に心の隅でずっとくすぶっていた野心が頭角を現してきたのです。東京進出です。

 当時の僕は27歳。もう30歳が目前に見え始めていた事もあり、今飛び出さないともう2度と東京へ行くことはないという危機感がとてつもなく強かったのです。自分が生まれた名古屋以外の場所で一度勝負してみたいという思いはずっとあり、悩みに悩んでついに上京を決意しました。

 それまで住んでいた部屋を畳み、一度実家へ戻りました。そして上京するための資金を作るために4ヶ月派遣社員として印刷会社に勤務しました。ここでも嬉しい誤算があり、僕が派遣されたこの会社がとても暖かい会社で、風来坊のような僕にすごく親身になってくれたのです。上京に対しても色々サポートをしてくれ、かつ印刷業界のイロハも体感できました。正直、会社組織というものにうんざりしていた僕だったのですが、ここでの4ヶ月間で僕にすごく大切なものを与えてもらえて、名古屋での最後の仕事を爽やかに終えることが出来たのです。そしてついに東京へ。

●念願の上京
 今でもよくやったなあと思っているんですが、東京へ出てきた時は仕事に就いていませんでした。上京する1ヶ月前、東京視察に来たときにまず住む部屋だけ決めておいて、とにかく来てしまったのです。それから1ヶ月間20社近い会社の面接を受けて都内のデザイン事務所へ就職しました。東京で働くようになってとにかく驚いたのは一個一個の仕事の大きさです。平気で自分の作ったポスターが新宿のタワーレコードに飾られたり、近所を歩いていれば何かしら自分が携わった仕事があったり。そして上京の目的の一つでもあるイラストレーションの仕事をするということもこの会社にいる時に数多くやれました。ここでデザイナーとしてやりたかった事をほぼやりきった感を持った僕はもっとイラストレーションの制作と売り込みを深く突っ込んでやりたいと思い2年間ほど勤めて生まれて初めての円満退社をしました。

●現在の自分
 やっと現在の自分に辿り着きました。ここからちょっとは同じような境遇で生きている人の参考になるかな。今は、とある会社の企画室でデザイン制作・企画の仕事をしています。昼間をイラストの売り込みや制作に当てることを最初から決めていた僕は、夜間シフト(夕方4:00〜12:30)で仕事をしています。こういう生活スタイルにして1年が経ちました。この間に色々な人に逢いに行ったり、展覧会をやったり、絵の教室に通ったりしています。上京してきた時に作ろうとしていたスタイルはほぼ完成しつつあります。ただまだイラストレーションだけで仕事をする、生活していくというものにはほど遠い状態にあります。自分の才能で生きていくという事の厳しさを毎日感じる日々です。でもツライと思ったり後悔することが不思議とありません。自分の思うように生きていられるのです。ここで不平不満を言っていたらバチが当たります。選んだのは自分なんだから。いつまでこういう事ができるのかは判りません。ただ今の自分にはこういう事をやっていられる環境と時間があるのだから行ける所まで行ってみようと思っています。それでもダメな時はその時考えます。そこからまた新しい道を切り開く自信が今の僕にはあると思っているし。たまに落ち込む事もあるけど、根っこの部分でもう簡単には僕の心は折れないと思っています。やらないでやっときゃ良かったと思うより、やってからやるんじゃなかったなあって思った方が何か健全な気がするのは僕だけでしょうか?迷っているならやってみる、きっとそれは「後悔」とは呼ばないと思います。

●究極の夢はエンターテイナー
 今後はもっと自分のイラストレーションの表現スタイルや間口を広げて自分の進める道を広げたいと思っています。そしてパブリックな場所で自分が生んだ作品達が乱舞させる事、自分の作ったもので人が喜んでもらう事、そういう事にさらに従事したいなあと思っています。たぶん僕の究極の夢はエンターテイメントの世界に生きて、人のために尽力したいと思っています。その手段としてイラストレーションを僕は選んでいるんですよ、きっと。
大好きなプロレスは自分のイラストレーションに対するイデオロギーと非常にシンクロします。



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<プロフィール>
1974年5月9日生まれ A型 
東京在住(愛知県名古屋市出身)
趣味…ギター演奏・プロレス観戦・演劇鑑賞・文章書き

1997年 愛知産業大学 造型学部産業デザイン学科卒業
     名古屋市の広告デザイン会社勤務(〜2001年)
2001年 パレットクラブ京都校 イラストレーション科修了
     東京に活動の場を移す。広告デザイン会社勤務(〜2003年)
2002年 福井真一イラストレーション教室受講
2004年 企画・デザイン制作の仕事をしながら作品制作の日々です。

榎本タイキ公式ホームページ『TAIKI THE OFFICIAL』
http://www11.ocn.ne.jp/~taiki


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