Bartok Gallery  アーティストへの道
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 第5話 『刺青〜絵師へと』龍志

幼少より

九州は大分県、福岡県との県境にある中津市で、僕は生まれました。両親は二人共、洋服の仕立て職人で、兄が一人、いました。物心ついた時から、色々な所に落書きをして、見かねた親が 広告の紙を小さめに切って用意してくれ、空いている部分に描きまくってました。始めの頃は何を描いていたかは覚えてませんが、次第に、ノートに一ページ一コマずつ漫画を作って描く様になりました。タイトルは、『なはくん』鼻が無いので、そうつけました。内容は、仮面ライダースタイルの怪人ものに、ウルトラマンの要素も入った感じでした。細かいストーリーは覚えていませんが、十冊位は描いたと思います。(後年、高校時代の仲間が、その中の一冊をどこかで拾ったらしく、知ってたのにはびっくりしました。)



それから本格的に漫画の事を徐々に知る様になりましたが、分かってくると、漫画特有のストーリーに合わせた動きのある絵が思うように描けない、自分に気づき、中学に上がる頃はほとんど描かなくなりました。中学からは特に熱中する物も無く、ただ遊んでましたが、終わり頃に出会ったパンクロックに衝撃を受けました。ロックは兄の影響で、小学生から歌謡曲と同じ様な感覚で聞いていましたが、パンクは違いました。早速ギターを手にし、バンドに熱中し始めました。高校時代はパンク〜ハードコアと、音楽活動の毎日でした。そして高校を卒業、そのまま上京しました。音楽で身を立てようという理由ではなく、もっと見聞を広めたかったので、人や、情報が集まる日本の中心に住もうと思いました。

当時、都会とはいえ金髪ロン毛は働き口が少なく、バイト探しは苦労しました。食うや食わずもありましたが、楽しくもありました。その時の周りの連中が、自分の手製の針で、いたずら彫りをしてて、よく目にしました。幼い頃、銭湯で見かけたのと同様、あまりきれいな物ではなかったので、特に興味は持ちませんでした。

そうしてバンドをやりながら、生活してましたが、徐々に自分の生きている事の証とは何だろう、というような事を考え始め、単に装飾的なものではなく、自分の生きた証、歴史という捉え方において、自分のバンドの名を彫ろうと、21才の頃、プロの彫師に依頼し、初めて刺青という文化に飛び込んだのでした。


新たな道

その頃より西洋スタイルのワンポイントタトゥーが徐々に広がりを見せ始め、よく彫ってる人を見かけるようになりました。大体の人は、一度入れると又入れたくなるもので、僕自身も文字だけでは飽きたらず、絵柄を増やしたりしてました。そうして段々とはまっていき、ついには、昔漫画を描いてたので、少しは絵は描けるだろう、と自分でやってみようと大それた事を考え始めました。当時少なかった外国のタトゥーマガジンを入手し、気に入ったタトゥーを見ながら、絵を描いたりしてました。そうしたある日、日本伝統刺青の本を書店で見かけ、写真ではありますが、初めて見るきれいな日本の刺青に心をうたれました。買える本は徐々に揃えていき、毎日穴が開く程眺めていました。歴史的な事や、意味、医学的な事とか読んで、伝統というものの奥深さを感じました。


今程、情報や、道具等、無い状況でしたので、それらの本に書かれている実践方法や、針の事等、参考にしましたが、いまいち感じが掴めず、悶々とした日々を過ごしてました。そんな時にバンド仲間のつてで、プロの日本伝統刺青師の元で修行している者に会い、彫ってもらう事になって訪れた際、その先生に会う事になって状況が急変。そこで僕も修行する事となり、いきなり生活が変わったのです。そうして新たな道を歩き始めました。22才の頃でした。



刺青師


本格的な刺青師の修行は新しい事ばかりで、とても充実したものでした。周りのバンド仲間も入れたい者が多くて、喜んで、体を貸してくれて、どんどん彫っていきました。そうして比較的早めに一人立ちする事になり、刺青師としての生活が始まりました。基本的には、日本の伝統刺青ですが、お客さんの要望も西洋的なものや、部族的なもの等、多様になってきたので、なるべく色々彫る様にしてました。

そうして海外のタトゥーコンペンションにも参加できる機会にも恵まれ、世界にタトゥーアーティストと接しながら、改めて、刺青に限らず、日本伝統というものを見つめ直す事となりました。

そして25才の頃、ある著名な外国のタトゥーアーティストに会うべく、スペインのイビサ島を訪ねて行きました。そこは、そのアーティストのファミリーの別荘みたいなのがある所で、そこで彫ったり、海の家で彫ったりと、日本では考えられない生活を送ってました。彫り終わると今度はそこに居る何人かのアーティストと共に、一人一人、大き目の画用紙にアイディアをぶつけるのがごとく、スラスラと時間を忘れて絵を描くのです。そこでの生活は常にそのくり返しでした。

まさに衝撃を受けました。確かに絵は描いてたけど、それはあくまで彫る為だけの絵であり、タトゥーのアイディアとはいえ、普通に描くという意識は無かった事でした。僕もそこで描いたのですが、当然うまく描けず、自分の無力さを痛感したのでした。それからです、絵を描く、という事を特に意識し始めたのは。






転換

日本に戻ってから早速、色々と描き始めました。画材は鉛筆やパステルで、毎日時間を見ては描きました。そうしてある程度慣れてきた頃、小妻要という刺青美人画で刺青界では海外にもよく知られている日本画家の画集を手にとった時、その繊細で美しい、本物の絵画の迫力に圧倒され、勿論比べようもないのですが、自分の今まで描いていたのはただの刺青の下絵にしか過ぎないと思い知らされました。

知り合いを通じて小妻師匠に会いに行く機会に恵まれ、訪ねて行きました。それを機に、展覧会にも顔を出す様になり、色々な方の絵も目にする様になりました。見る度に、自分にも本格的な絵画が描けるんだろうか?。挑戦してみたいという思いが膨らんでいったのでした。そして、刺青師という看板を捨ててまで、絵の道に進もうと決めたのでした。当然ながら技量も無いし、環境もうまく回らず、精神面できつくなっていきました。そんな時に小妻師匠と会う事があって、「絵描きになりたかったらいつでも私の所へ来なさい」と思いがけない言葉をかけて頂き、絵を持って行くようになったのですが、まだ自分の精神面が安定しておらず、放浪気味の生活になっていきました。しかし、半年程で、気を持ち直し、小妻師匠と連絡を取ったところ、「家がないのなら、近くに探してあげるから来るか?」と言われ、迷わず東京にもどることにしました。27才の秋でした。



絵師

改めて一から修行となった訳ですが、絵の基本中の基本、デッサンから始まりました。今まで、ちゃんとやってなかった自分にとって、線の一本、一本、直される度に、絵の奥深さを感じていきました。もがきつつも、なんとか続けてたある日、普通に龍を描いた時に、はっと気付く事がありました。かといって、すぐ描けるものでもなかったんですが、物の見方が変化していきました。

そうして絵を描いていく傍ら、仲間のバンドのCDジャケットや、服のデザイン、そして自らも、ブランドを立ち上げ、デザイン等色々やりながら、今に至ります。

常に自分の弱さと闘いながら、時に苦しく、時に楽しく一進一退しながら来た様に感じます。36才の今、思う事は、本当にスタートといえる時期はまだまだ先でしょう。けど、そこに向かう入り口にようやく立てた気がします。

ざっと、振り返ってみて、何か辛い事ばかりの様ですが、人生はそんなものなのかも知れません。その中から乗り越え、本当の楽しみをみつけていくんだろうと思います。

自分の場合、幼い頃から一つの事をやってきた人と違うし、そんなのでいいのか?と自問自答した事はありますが、生きてきた人生は変えられないし、逆にその色々な経験を捨てるのではなく、全部しょっていくのが、自分なりのスタイルなのかなと思います。



これから

こんな半端者がどこまで出来るかわかりませんが、これからの目標としては、やはり刺青という、まだまだ世間では特異な文化を通ってきたし、背負ってもいるので、それを認められなくてもいいけれど、せめて、見方だけは変えられればと思います。歴史的な事もありますが、世間の刺青に対するイメージを少しでも向上出来れば、と。

絵描きへの出発点は、刺青の下絵をどこまで絵画として高めていけるかという事なので、そういう面で、刺青絵画というべきか、絵でもみれるし、彫っても映える、そんな絵を追求したいです。勿論好みもあるし、昔の伝統の絵が好きな人もいるでしょう。けれどこれは一刺青師であった僕の絵画に対する想いなのです。

何だ刺青か、が これが刺青の下絵?と思わせる事が出来る様 精進したく思います。そしてそれが、花島風月等、普遍的なテーマや色々な刺青とは関係ない絵を描いた時にどうなるのか、これから果てしない長い道のりをゆっくり歩いていきたいのです。

ざっと見てみて、一つの事が続かない自分が嫌でしたが こうやってみると、漫画で手を動かし始め、音楽をやったから違う角度から刺青文化に出会え、そうして絵に進んでいって、一応繋がっているんだなぁと思いました。

今まで、出会った全ての人々に感謝です。


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