Bartok Gallery  イラストレーターがスターだった時代があった 
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椎根和
元マガジンハウス取締役編集総局長
Hanako創刊編集長、relax創刊編集長。5年間猫相手の生活後、
現在は横浜中華街で気楽に中華薬茶の喫茶店を開いている。


第4回最高の挿絵画家・岩田専太郎   椎根和

 イラストレーターという名称を普通の人たちが使いはじめたのは1967年頃、横尾忠則、宇野亜喜良が知的アイドル風にエディトリアル、つまり週刊誌や月刊誌、劇団のポスターなどに作品を発表しはじめた頃だ。横尾も宇野も、それまでは広告制作会社で、働いていた。アンディ・ウォーホルもアーティストになる前は広告制作者としてNYでは有名な存在だった。

 では日本で、横尾、宇野がマスコミ上でデビューする以前は、誰が雑誌の絵を描いていたのだろうか。それは挿絵(さしえ)画家といわれたアーティストたちである。数多くの挿絵画家が雑誌界に登場し、消えていったが、そのなかで五十年間もマスコミに絵を描き続けたのは岩田専太郎だった。大正15年にビアズレー風のタッチで時代小説「鳴門秘帖」の挿絵を描いてデビューし、1974年に亡くなるまで、常に一線の挿絵画家として活躍した。岩田は浮世絵の系譜の美人画を学び、そして時代にずれることなく挿絵界の巨匠として君臨した。

 横尾も子供時代には岩田の挿絵を模写していた。ぼくは大学を出て編集という仕事につき、最初に担当した画家が岩田専太郎であった。わずか二枚のモノクロの絵をもらうために表参道の豪邸に月に一週間通う生活をはじめた。午前八時三十分に岩田邸へ行くと、まず朝食がでる。お昼になると岩田先生も起きてきて、ぼくは鰻重を食べる。夜になると、銀座のバーにつれていってくれる。ぼくの月給が一万二千円の時に、二人で三万円の勘定の超高級バーを4軒もめぐる。一緒に岩田邸に戻ると、明日の朝までに絵を描いとくから、九時頃にきなさい、といわれる。しかし絵はできてないからまた前途のような豪華な一日がはじまる。お正月とお盆には、スーツを買いなさいとお小遣いまで下さる。ある日、岩田先生が眠くなったといって奥で昼休みにこもってしまい、ぼくが一人で画室兼応接間にいると、玄関のベルがなった。出てみると、当時、大流行作家だった三島由紀夫が立っている。岩田はいま昼寝中ですがというと「実はこの度、『音楽』という小説を連載するんですが、その挿絵を岩田先生に描いて頂くことになりました。もちろんお約束でないので、これで帰ります。三島が来たということだけをお伝え下さい」といって帰って行った。当時は作家の方から挿絵を描いてくれる画家の方に挨拶に行くという習慣が残っていたこと、またそのぐらい挿絵画家は多額の原稿料を取っていたし、尊敬もされていた。現在はどうなのかなぁ。
 

















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